すごくいい坂について・その二
すごくいい坂には、実は本当の名前がある。「愛染坂」という。
この一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれている。夕陽が見える高台、というような意味だろう。今この坂を上っても、目の前には家ばかりで、海はどこにも見えない。けれど鎌倉時代には、ここから夕陽が海に沈んでいくのが見えたという。やがて海は見えないほど遠くまで退き、夕陽も街に遮られてしまった。
ここを通るとき、私はときどき、もう見えなくなったその海と夕陽を思い浮かべてみる。何百年も本当に存在していたものが、いつのまにか消えて、名前だけが残っている。
夏になると、すごくいい坂の木々で蝉が大きな声で鳴きはじめる。夏が過ぎれば、壁は残り、夕陽ヶ丘も残るけれど、蝉だけはいなくなる。すごくいい坂は、また愛染坂に戻る。